重度心身障害児として生まれた次女と生きる

障害児福祉

2015年、第三子の次女ハルは、正規産(37週)にも関わらず、1840gという低体重でうまれた。
それまで障害者という人はどこかにいる誰かのことでしかなかった。ハルを生んだその日、いや、もしかしたら彼女の成長が胎内で何故か止まってしまったことが分かった瞬間から、「障害のある誰か」は「障害のある我が子」になっていった気がしている。

お腹は大きいのに「小さめだね」と言われた妊娠期

妊娠24週くらいから、お腹は随分大きいのに、赤ちゃんは小さめだね、と言われていた。見た目には「双子ちゃん?」と声を書けられるくらいにお腹は大きく、そのギャップに自分でも戸惑いを覚えた。総合病院の産婦人科の先生は、大学の医局から派遣されるらしく、検診のたびに違う先生だったから、心配する先生もいれば、大丈夫という先生もいて、自分でも状況の判断がつかなかった。

少しずつ成長しているから大丈夫、という男性医師の言葉をずっと自分に言い聞かせていたけれど、35週に入って1500gから成長が止まっていることが分かった。2人の子供を出産していた経験から、これがちょっと異常であることは、私にも分かった。

そのままこども病院に入院してMFICU(母体胎児集中治療室)と呼ばれる仰々しい個室に入り、経過を観察することになった。里帰り出産を予定していたので、上の子2人は実家で生活をしていたのだが、入院したこども病院は実家から車で1時間ほど。さらに、職場が異動になって一足先に夫が生活を始めていた新天地は、こども病院から高速を使って車で2時間の長距離。家族は3つの場所にバラバラな状態だった。すぐには顔を合わせられない距離でお互いの様子を伺いながら、生まれてこれるかわからない、何が起こっているかわからない第三子の出産を待つ時間は、まるで修行の時間だった。

個室で過ごすということ自体が刑罰になるという話を聞いたことがある。それくらい、一人だけの空間というのは異様で、精神衛生を保つのは至難の技だ。手厚い看護を受けられるとはいえ、個室の異様な空間に身を置きがら、得体のしれない不安と戦った数日間。ティッシュを何箱消費したのか覚えていないけれど、それ以上に、普段泣かない夫が面会に来るたびに涙をこらえているのがわかって、とても切なかった。とにかくお腹の子が無事に息をしてくれたら。そして一刻も早く家族みんなで暮らせたら。その2つそだけを考えていた。

ハルは同時多発的脳梗塞のサバイバー

37週、自然分娩で出産を迎え、ハルはあっという間にこの世に生まれた。
どうか無事にこの子を産めますように
どうか無事に産道をくぐりぬけられますように
どうか無事に。
どうか無事に。
そればかり考えていたから、出産の痛みはまったく覚えていない。産後の安静時間を過ぎたら、私はすぐに立ち上がり、スタスタと歩いて先生の話を聞き、何枚もの同意書にサインをした。お母さん大丈夫ですか、と言われたことに、まったくピンとこなかったけれど、それくらい、あの時の私は殺気立っていたのだと思う。

出生直後、ハルはありとあらゆる検査をした。
日に100回にも及ぶ頻回なてんかん発作、小眼球症、虚血性貧血、心臓奇形、黄疸。息はしていたけれど、ハルにはさまざまなトラブルがおこっていた。それはお腹の中にいた時に同時多発的に起こっていた脳梗塞が関連しているらしい、という話だった。

でも、それでハルが将来どうなっていくのか、どういうことを意味するのか、ぜんぜんピンとこなかった。おそらく歩けるようにも座れるようにもならないだろうと言われ、後に目も見えていないことがわかり、ああ、この子は障害をもっていきていくんだとゆっくりと理解した。

4ヶ月NICUに入院して、様々な治療をした。てんかん発作も服薬治療できる状態になって、ハルはようやく家族のもとに”帰って”きた。

可愛らしいハル。守るべき存在のハル。
でも、様々なトラブルにちっともめげず、穏やかに「生きる!」を全うする、誰よりも強いハル。

目が見えないならば家族が目になればいい、歩けないならば家族が足になればいい。
私達家族は、ハルという存在によって、はからずもあらたな関係性を築くことになった。

私達家族にハルが運んでくれたもの

家族みんなで生活を始めた小さな村で、ハルはたくさんの人にかわいがってもらった。第四子である弟の出産の時には村の保育園に1年間お世話になり、周りの子どもたちとの関わりの中で、リハビリだけでは決して成し遂げることができなかった成長を見せた。そして、唐突に思い立って旅に出る我が家の次女として、ハルは、海にも山にも、どこにでもでかけていった。

それでも、生まれたばかりの弟の面倒と、いつまでも赤ちゃんのようなお世話が必要なハルの面倒におわれ、どこかで家族としての限界も感じ始めた頃、夫の転職でインドに移住することが決まった。

インドでは、特別支援学校の早期教室に通い、様々な文化の違いに戸惑いながらも、もうひとりの母のようなヘルパーさんのおかげで穏やかな生活を送った。

ところが2年が経過してCOVID-19のパンデミックが襲った。半年以上の経過観察の末、2020年秋、母と他3人のきょうだいは日本に帰国することを決断した。

夫と共にインドに残留したハルは、2021年4月に夫の異動でフィリピンに移住。この時、本来ならば小学校に就学する年齢になっていた。

フィリピンでの就学について、コロナの影響でしばらくは難しいことは覚悟していたけれど、いつまでたたってもハルを受け入れてもらえる学校はみつからなかった。それでも、幸い心優しいヘルパーさんに恵まれ、毎日公園に行くことを日課として、公園で友達の輪を広げている。

2023年3月現在、8歳になったハルは、言葉でのコミュニケーションはできない。移動も食事も排泄も、全て介助が必要だが、笑ったり泣いたり、穏やかに過ごしている。

それでも、人間関係の中で生まれる学びや成長の可能性として、学校を諦めるのはやっぱり心苦しい。フィリピンでは、言語や文化の違いの中で交渉していくのがなによりもハードルになっている。ならば日本に呼び戻し、少なくとも日本で、彼女が心地良い、かつ彼女と社会にとってよりよい形で学校に通えるよう交渉することから始めてみようと準備を始めた。

ハルが生まれ、ハルがいたことで、家族の関係はかわったし、社会との関わりも変わった。
長男が学校に行きたくないといった時、ハルがいたから、もっと別の生き方も考えてみようと声をかけることができたし、たぶんきょうだいたちは、生きることを全力で全うしているハルの存在に救われることも少なくないはずだ。少なくとも、私はとても救われている。

ハルのように障害を持った子が学校や社会の中でもっと存在感をもち、日常を共にする社会の一員としてより広く受け入れられていくように、私は残りの人生を捧げようと思う。

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